2022年4月9日(土)

明治維新の前に戻る日本 ~私達は大義を取り戻せるのか~

昨日、2022年4月1日に見田宗介先生が亡くなったことを友人からの連絡で知り、驚きと哀惜の念に堪えずこの文章を書いています。

もう40年も前のことですが、当時大学の生協で東大で社会学を教えていた見田先生の「時間の比較社会学」を立ち読みしたのが先生との最初の出会いでした。
すぐにこれは面白いと直感し、30分以上も立ち読みして、結局その時は金欠で買わなかった本を手に入れたのは、それから少し後のことでした。

安定した大企業へ就職するのか、不安定なアルバイトのような独立自営業を選ぶのか、モヤモヤした頭で、大学から早稲田の古本屋通りを馬場に向かって歩いている時、とある古本屋の店先に忘れもしない真木悠介「時間の比較社会学」という見田先生のペンネームの本が目に飛び込んできて、即買いし、一気に読んだ記憶があります。

日本の文化にも通じる古代ギリシャの「円環的な時間」キリスト教社会の「線分的な時間」そして近代社会の「直線的な時間」。
40年ぶりに久しぶりにこの本をなつかしみながら見て驚くのは、これは、2022年現在の私達にとっていまだに、そして当時よりも更に深い大きな問題として横たわっているということです。

そしてこの深く大きな重要な問題から現代に生きる私達が、どうすれば、自由になり、豊かさを取り戻せば良いのか、全く見当も付かないような状況に追い込まれてしまっているということです。

何故、現在この社会が、これほど窮屈で息苦しく感じるのかと言えば、それは、私達が生きるこの「時空間」(アインシュタインの一体不可分の時間と空間)、特に時間が日本人が元々持っていた見田先生が言う古代ギリシャ的な円環的な時間ではなく、キリスト教社会的線分的な時間、更に800年前に西洋の時代が始まり、十三世紀から十四世紀に機械式時計が誕生してからは、近代の「直線的な時間」にどんどん拍車がかかった中に私達現代人が「生かされている」からという訳なのです。

私達日本人はかつて、円環的でゆったりとした時間を持ちながら生きてきました。
それは、生まれては死に、死んでは生まれるという円環的な生につながる「悠久の命の輪廻の哲学」にもつながる生き方です。
特に近代から現代における時間の流れの中で戦後圧倒的な物質の量と質で、日本が戦に敗れ、西洋的な苛烈な時計化された生を生きることを当然として、受け入れざるを得なくなった結果、良くも悪くも今のような現代社会の「問題」に直面しているのです。
それを見田先生は次のように書いておられます。

『まず工場と官庁が、ついで学校が最後に放送、とりわけテレビジョンが、近代人の<生活の時計化>の領域を順次拡大し、密度を細密化していった。
近代における国民的な義務教育、「普通教育」の主要な機能が—少なくともその潜在機能が—教科の内容自体よりもむしろ、時計的に編成され管理された生活秩序への児童の馴致(じゅんち)にあるということを、すでに幾人かの著者は指摘している。』

これは40年前の文章ですが、WGIPとGHQの占領政策によって結果として、極めて巧妙狡猾に私達日本人の半数以上が脳も占領されてしまいました。

しかも更に、現在の私達の社会は、この「時計化された生の全体的な浸透」が更に深く大きくなってはいないでしょうか?
数年前の米国大統領選挙報動あたりから、その後のコロナ禍、今回のソ連とウクライナ間の軍事的衝突に関する報道も含め、かつて無い程の偏向報道、報道されない問題、大本営的報道がテレビを通じて、私達庶民に、大きく深刻な影響を与えているように見えます。

実は大脳生理学者に言わせると、テレビの脳や深層心理に対する影響力は最大かつ最強です。
それが、市民社会の最小単位共同体の家族や個人の聖域である私生活の内部に客観化されたように見えるかたちで、計量化され管理された時間や空間の秩序として当然のように侵入するのです。
そして気づかないうちに潜在意識に深く入り込んだ情報に庶民は我知らず洗脳された結果、奴隷状態になっているのに、ほとんど自覚が無いという状態が出現します。

結果として、思考や感情、本能や知性、理性にも大きな影響があるのですが、ほとんどの人はそれを意識できずにいます。

私達は現在40年前に見田先生が危惧した「このような社会」に生きています。
いや生きているのではなく生かされています。

だからほとんどの人々は深く考えることもせず、習慣の動物の如く昨日までやってきたことを今日もやり、今日やっていることを又明日も同じように単調に繰り返す中で、すべての出来事が当たり前で退屈だと思い込んでしまいます。そこに今とここの躍動感や素晴らしさは、当然ありません。

実はこの状態は現在の「大変化の時代」においては、とても危険なことと言わざるを得ません。
しかし、この直線的な時間の流れに慣れすぎてしまうと、色々なことを深く考え予期することが、難しくなったり、できなくなったりし、結果、無関心になります。

更に見田先生は貨幣と時間の類似性についても素晴らしい指摘と論考をしておられます。
この視点はまさしく秀逸で、私は20代の頃にこの視点に関して先生に気づかせて頂いたことにより、近代の「西洋的直線的時間」の創造者と「貨幣(制度)」の創造者が実は同じ人々だと気づき、私のその後の人生に大きな知恵として働くことになりました。

たとえば、2022年の年初に起こった日本を代表する企業である日立製作所がジョブ型雇用の適応を全社員に広げる旨の発表がありました。
結論から言えば、今後は企業の終身雇用がいよいよ本格的に崩壊し雇用の流動化も更に大きな「時間」と「空間」の流れとして進むということになるはずです。
そうなると、人々の意識は、今までの企業内での出世や昇進よりも、転職や副業を前提としたスキルアップや能力開発を重要視するようになるのは、当たり前のこととなるでしょう。

更にそれだけではなく、自分の将来を考えて、投資や自立・独立を意識する方も飛躍的に多くなっていくことになります。

しかしここで、そのような意識を持つ方々に大きな壁が立ち塞がることになります。
当然ですが、大多数の方々にとって転職も副業も自立も独立も程度の差はありますが、そんなに簡単なことではありません。特に多くの方々が望んでいる自分の収入や人生が飛躍的に高まる転職も副業もましてや自立や独立に至っては、数%の成功率というのが現実の厳しい姿です。

最近では転職で収入ダウンした生活を副業でなんとか元の収入に戻すというのが一般的で、自立、独立をしても失敗する人が6割超、中長期的に1千万2千万3千万と収入を上げられる人はごく僅かです。

何故、日本人は戦後75年、ここまでレベルが落ち込んでしまったのでしょうか?
これもその究極の理由は、「時間」と、そしてそれに一体化している「空間」の中にあると思われます。
それは戦後の日本社会の制度設計に問題が有るということです。

もち論其れは押し付けられてきたものですが、殆どの日本人が、現在私達のような庶民だけでなく、政治家や官僚も含め、時代の変化についていけない理由がここにあるのです。

あえてもっと具体的に言うと、致命的な問題、それが、戦後の日本の「教育制度」にも在りました。

戦後の日本の教育の本質は、工場労働者やサラリーマンを養成することが、目的の教育制度だったと言っても過言ではありませんでした。だから高度経済成長期や安定成長期には、これで大正解だったのですが、グローバル競争社会で技術革新が進み、大変化の時代に本格的に突入すると、社会の在り方そのものが大変化を起こしてしまい、今までの社会も社会制度もそれに合わせて大きく変えざるを得なくなるのが、自明の理です。

そうなると、ここ30年間は、ただでさえ既に役に立っていなかった教育制度も、自立独立の在り方に適切に対応できるようなものに変えていかなくてはならないのはこれ又当然ということになります。

しかし人間は習慣の動物ですから、長年の間の教育と実践で染みついた考え方と行動を社会が変わるからと言って、そう簡単に変えることができないのが、社会の大多数の人々にとっての正直な現状ということなのです。

この大変化の時代の中で人々は、仕事や生活レベルを上げる為に転職や副業のみならず、技術やスキルを上げる教材、又は現実的にお金を稼ぐ為に具体的な商材教材にチャレンジしますが、なかなか思うような成果結果を上げられないという方が殆どという状況を私達もここ数十年よく目にして来ました。

一体、何が問題なのでしょうか。

自分の考え方、行動の何が間違っているのでしょうか?

私達がここ数年取り組んでいる自分を再活性させる知恵「能術」の中に「物事に対する考え方がすべて」という言葉があります。

自分が長い間、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学で学んで来たこと。
又それを前提に社会で学んだ当たり前の考え方と行動をもう一度ゼロから白紙に戻して学び、実践し直してみることこそが今、最も必要なことであり、この大変化の時代の中で、急がば回れの最短の道だと私達は人材ビジネスの27年間の経験で確信をしました。

皆様の「どうすればいいのか?何を学べばいいのか?」という質問疑問に対して私達は「ただ、能術を学んで下さい、能術を通して、自分の今の目の前の仕事に今までとは違う考え方と行動で、しかし真摯に柔軟に諦めずに取り組んでみて下さい。」と申し上げています。

よく「すぐに成功する、すぐに稼げる系のコンテンツが努力はいらないとか勉強しなくていい、苦労は意味が無い」とか声高に主張している場合があります。
中には本当にそのようなすばらしいものが、あるかもしれませんが、寡聞にして私達は、そのような教えで成功している人を見たことがありません。
それは一種のマーケティング用語だと思います。

勉強しない人、努力しない人、苦労を嫌がる傾向の強い方、一時的にもハードワークをしない方には成果は出辛く、結果も残せません。

くれぐれもアテンションを集める為のマーケティング用語に踊らされ、大切な時間と労力とお金をムダにしないでいただきたいと思います。

現在のウクライナの問題を見ていると、戦後長らく当たり前のように続いてきた日米同盟も、意外なことに終わりに向かってゆくのだなということが分かります。

テレビに脳を洗脳されていなければ、何かがおかしいと気づけますが、これは長らく引きずって来た戦後の構造がいよいよ終わりを告げるということであり、同時に其れは近代の構造の見直しにつながるということになりそうです。

これは、私達日本人にとっては大きなチャンスなのですが、チャンスにはその背中合わせに常にピンチが存在します。

このピンチはここまでご説明してきたように現在の日本人にとってはなかなかハードルの高い大きなピンチとして今後10年に渡り私達の国、日本に降りかかってくるのでしょう。

何故能術なのか?

もう一つの大きな理由が今までお話してきた「大変化」に加え、これからAI・量子コンピュータ・ロボットが本格的に社会に進出して来ることにまつわることにあります。

能術の知恵は、これらの科学技術の進歩に自分が、仕事を奪われたり、心の活力を失ったり、人間らしさを実感し辛くなるといった負の影響から私達を守り、技術の進歩を賢く前向きに利用することができる人間性を実感することができるようになるのが、能術の大きな特色です。

見田先生の言葉で言えば、円環的な時間、心的な時間、を実感しながら生きることができている状況です。

20世紀の目に見える物がすべてという古典物理学の世界から、21世紀的な目に見えない量子物理学・分子生物学・脳科学の世界の先の東洋の時代の新たなメッカとしての日本に相応しい今の現代日本が明治維新以来、一時的に忘れてしまっている知恵を取り戻すお手伝いをしながら、あなたの仕事や生活や人生を考え、行動して頂けるようにサポートするのが能術です。

現在、まずは「隗より始めよ」ということで、私達テクノウェイブの社員及び新しく社員になって頂いた方だけでなく、スタッフになって頂いた方にも、能術の知恵と技能を積極的に開示しています。

自分達自身が、この三次元の目に見える世界の中で、実際に切磋琢磨し合うことにより、自分の望む本質的な自由や、豊かさを手に入れ、実感することが大切だと思っています。

もち論、この大変化の時代ですから、今までと同じ考え方でやっていると、成果結果は出辛いですが、時代の流れに適ったやり方で苦心すれば、同じ苦労でも、必ず報われる努力になります。

この文章をご覧になり、少しでも関心を持たれたら、是非お気軽にお問い合わせ下さい。

大変化の時代の意味とは、「私達の考え方や行動も大変化させることによって新たな時代に適応する」ということなのです。「人間は習慣的に実践しているものになる」という言葉があります。

私達が習慣的に実践してきたことを、大変化に翻弄される前に正しく変える知恵と物事の本質を「見る目」を養うものが能術です。

最後に20代で出会うことができた見田先生の知恵との邂逅に心から感謝すると同時に先生のご冥福を心から祈り、お別れの言葉とさせて頂きます。

長文をお読みいただき、ありがとうございます。